3月15日
コミュニケーションがよく分からなくなった。元から分かっていないんだろうけれど。
何を言って、何を言わないでおくべきなのかが分からない。ポジティブで相手が喜ぶことだけを言っていればおかしなことにはならないのだろうけれど、それでは自分がないようで苦しくなってしまう。私が自分があってほしいと思うのは、相手へのエゴの押し付けなんだろうか。
幼い頃からずっと、黙ってニコニコして相手に合わせていた。それが他者から負の感情を直接向けられるのを防ぐ一番良い方法だと思っていた。ネガティブな話は不快な気持ちになるから、誰も聞きたくないだろう。だからこそ私自身の話には価値がないのだ。
そうやって対人関係をやり過ごしてきたけれど、自分の中にある苦しみは抱え続けることになった。自分を出せず、酷使され、自分がなくなっていく感覚に陥る。たとえ他者に好かれたとしても、それは自分の思う自分ではないから、そこに向けられる好意を受け入れられない。しかしこれらは自分で選んで行動してきたことの結果だから、誰のせいでもなく、責任は私にある。
相手に何かを伝えたほうが良いと私が思ったとしても、それはわがままに思える。私の考えを相手は知りたいだろうか。知りたいと言われたときだけしゃべれば良いのだろうか。それなら今までと変わらないじゃないか。わけが分からなくなっている。コミュニケーション能力を磨かなかったツケが回ってきている。
自分の心に浮かんだものを言葉にするクセがついていない。
これは言ってはダメで、これは話す価値のあるものだ、というのを分けようとするから混乱するんだろうか。すべてを言ってしまって、嫌われるほうが良いのかもしれない。それで嫌われるんだったら、きっと私はその人とは相性が良くなくて、いつかはそうなる運命だったのだろう。数人に嫌われたところで、取り返しのつかないことになるわけではないのだから、嫌われることを恐れることが、自分にとっても相手にとっても(相手にとっても、と言うと、相手の心を勝手に想像しているから良くないのだろうけれど)一番良くないんじゃないだろうか。
自分をよく見せようとすることをやめて、相手に嫌われることを受け入れられたら、きっと生きやすいだろうし、双方にとって良い人間関係も作れると思う。嫌われることを受け入れるのが一番難しいんだけどな!
結局のところ、私のコミュニケーションの問題は、
- 嫌われることを極端に恐れている
- コンプレックスや苦手意識が多いため自己肯定感が低く、かつ、そこに踏み込まれたときに不安定になったり不機嫌になったりする
- 心に浮かんだものを言葉として発するクセがない
というところなんじゃないだろうか。
細かく挙げるともっとたくさんあるのだろうけれど。
- 自分の考え方でしか相手の心情を察せず、それが間違っていると具体的に教えられても真に理解できない
- 相手の言葉をそのまま受け取って勘違いしつつ、言外の意味をネガティブ方向に解釈する
- 言葉の選び方が稚拙
- せっかちで、相手がクッション言葉を使ったり婉曲的な表現をしたりするとイライラしがち
とか。
しかし何を話すべきか分からないからすべてを話そう、という考え方は極端だと我ながら思う。
また、相手に合わせて息を吐くように嘘をつく自分が嫌で、それをやめた反動でバカ正直になったことを自分の中では良いことだと思っていたけれど、それも極端なんだよなあ。
ちょうどいい具合という意味の「適当」にすることがとても難しくて、いつも極端になってしまう。
居酒屋で久々にハイボールを飲んだ。よく冷えていて飲みづらかった。私が居酒屋でハイボールを頼まないのは、夏以外は氷でキンキンに冷えた飲み物を飲みたくないから、というのもあるのかもしれないと思った。
ちなみに、ビールに関してはキリン製品の味が好きだから、店に置いてあるのがアサヒやエビスだった場合はビール以外を頼むことが多い。